校 歌 | 校歌の直訳 | |
1節 |
越路のわが郷天賦の富源 大空ひたして八千八水 沃土の大野を貫く見ずや われらは集いて教の庭に 勉めん農林学びの道を |
越路のわが郷は天から与えられた 富の生ずる源である 大空を川面に映して数多の河川が 沃土の大野を貫き流れているのを 見ずや(見えるであろう) 我等は学び舎に参集して 農林の学びの道を勉め励んでいこう |
2節 |
旭日の光の射る粟ケ岳 |
朝日の光が射す粟が岳 弥彦の峰は夕日に美しく照り映える 高山を仰ぎ見て心の模範とする 永久にすぐれて美しい不動の姿 無言の教はいくら汲みとっても 尽きることはないであろう |
3節 | 牛羊むれ行くあしたの牧に 平和を染むるか緑の小草 蓊鬱日を蔽う林の奥に 造化の撫育を学びて帰る 夕べの学窓燈しの睦 |
牛羊群れ行く朝の牧場に 小草が緑色に染まって いかにも平和な感じである 樹木が鬱蒼と茂って日の光を 薇いかくすほどの林の奥に 造物主(天地自然)が万物をいつくしみ 育てるさまを学んで帰る 夜、学窓には灯火が輝き その下で皆睦まじく学び 語り合っている |
4節 | 痩せたる地さえ腕の冴えに 八束穂うみなす基と為さん 雄々しく額の玉なす汗を 払いて尽くさん一日のつとめ 一日の光陰すぐさじあだに |
痩せている地さえすぐれた技倆 長くよく稔った稲の穂を生みなす 基と為そう 雄雄しく額の玉なす汗を 払って尽くそう一日のつとめ 一日の光陰を無駄には過ごすまい |
5節 | 健児は八百ひとしくここに 農林邦家の基の道を つちかい養ふ教えの庭に 天功補う無限の励ああわれ希望の光をたどる |
健児は八百ひとしくここに集まり 農林国家の基礎となる道を 培い養う学園に 自然のはたらきを補うべく 勉学に実習に限りなく勉め励んでいく 嗚呼われらは希望の光をかざして 進んでいこう |
野外音楽堂
洋式庭園の三五園に大正13年(1924)に完成、その後たびたび音楽部の演奏が行われた。この音楽堂は日魯漁業社長堤氏の寄贈されたもので、屋根は未完成のままであった。惜しくも、新潟地震で損壊撤去された。
「越路の我が郷」ではじまる加茂農林の校歌は、詩、曲ともその格調の高さは定評があります。校歌作製の周辺を訪ねてみました。
一、東京音楽学校に依頼したわけ
初代校長赤星先生は加茂農林を専門学校並のレベルにするべく施設、設備の充実に意を用いられました。校歌もその例にもれません。中央の一流の人に依頼されました。明治三六年創立から五年後の明治四一年の創立記念日に出来上がったものです。
校歌の制作は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)に依頼することから始まりました。当時の東京音楽学校の湯原元一校長は赤星校長と大変親交がありました。そんな関係で依頼されました。(余談になりますが、加茂農林の校門、通称赤門は東京芸術大学のものとほぼ同じ形です。)
二、土井晩翠への作詞依頼について
詩人、米英文学者土井晩翠(一八七一〜一九六三年)と東京音楽学校は文部省唱歌の製作を通じて交流がありました。音楽学校のもとめに応じて作詞をしており、代表的なものに「荒城の月」という名曲があることは、広く知られるところです。
そのような関係で赤星先生から湯原校長先生に、湯原校長先生を通じて土井晩翠に作詞を依頼されたものと思います.
三、作曲は、東京音楽学校の岡野貞一先生です
詩ができてから作曲までにかなりの月日がかかりました。東京音楽学校の作曲と言うことになっていますが実際の作曲者は岡野貞一(一九七八〜一九四一)であることが芸術大学の資料から判明しました。岡野貞一は鳥取県出身で東京音楽学校卒業後、明治三九年母校の(東京音楽学校)助教授に任命され熱心に後進の指導にあたり、日本の音楽教育の向上に尽くした人です。
かつて一度も人と争ったことがないといわれる温厚な人格者であったといわれます。文部省歌の中でも「春が来た」「故郷」「朧月夜」など多くの名曲を残しています。
岡野貞一は湯原校長先生から依頼されて加茂農林学校の校歌作曲にあたりました。
四、詩の一部変更について
昭和十四年、文部省は全国の校歌、校旗を一斉に調べ訂正の指示をしました。加茂農林の校歌はそのときに、四ヵ所を訂正しています。
大きな訂正箇所は「健児よ来たりて教の庭に」が「我らは集ひて教の庭に」としてあります。あとは助詞が三ヵ所でした。五節の「健児三百」はその後四百に、更に、昭和二三年から八百に学校独自で変更して歌っています。